2007年 03月 19日
韓国の北野武監督といわれる監督が作った「悪い男」
恋人のいる女子大生を自分の昔の彼女に似ているからかどうかはしらないが、自分のものにしてしまおうと、謀略を仕掛けて売春宿に売ってしまう。(まあその設定に少々無理は感じられたが)そして「せめて最初は好きな人に・・・」という彼女の願いを聞き入れるふりをして恋人にあわすが、願いを遂げさせずにすぐ引き離す。泣き泣き客をとる女の姿をマジックミラーの向こうから凝視し続けるだけで、手は出さない男。次第にその男にはめられてその境遇に落とされたと気づく彼女は、最初は男を憎みつつ、男から精神的に離れられなくなってしまう。殺人犯として死刑を宣告された男に面会に行った女は「私をこういう風にしてしまった責任をとらずに勝手に死ぬな。」と叫ぶ。
そして最後は殺人犯では無かったとわかり釈放された悪い男と、トラックの荷台を使っての売春稼業の旅に出かけてしまう。
悪い男によって 女は人生を狂わされてしまうのだが、最後にはそれが彼女の真に望むスタイルの生き方のようにされてしまうのだ。
こんな映画が作られるようになったということは、それだけ韓国の表現の自由が認められているからだろうと思うけれど、ある意味儒教倫理がまだまだ強い韓国にとっては「国辱映画」かもしれない。
2007年 03月 19日
人は人との関係で幸せだったり不幸だったり・・・
ただ小説をそのまま映画化すればどうしようもなく、ただ暗い一方の救いのない映画になるから、あんなふうにコメディーというかミュージカル風に仕立てたんだろうなあと思われる映画だった。
父親との関係において満たされないものがあった松子は、それを交際する男に求めようとする。しかし、そんなことに応えられる男に出逢うことはできず、破滅への道をどんどん突き進む。多分松子が転落のきっかけとなる事件に出会わず、松子に好意をもっていて松子もまんざらでなく感じている同僚との交際が続いたとしても、多分松子は彼に応えられないものを求めてしまい、その関係は上手くいかなかったのではないだろうかと思われる。
女教師の転落ものでは、国は違うがテネシーウィリアムズの「欲望という名の電車」のブランチに似ているところがあるかもしれない。彼女も自分の満たされないものを男性との関係において求めようとして失敗している。
あるはずの無いところで、無いものを探そうとすることに無理がある。最後に松子がつきあった龍洋一に逃げられてからの松子は、人との関係を持つことに絶望し自暴自棄の生活を送る。旧友に会ったことをきっかけにもう一度人生をやり直そうとした時、松子の人生はリンチ殺人によって暴力的に幕を閉じさせられてしまう。なんともやりきれない結末だ。
原作を読んでないからなんともいえないけれど、人の幸せも不幸も身の回りの人との人間関係が満たされると感じられるものであるのか、ないのかということに大きく関わっていると感じた。実際は松子を愛していながら、その愛を松子に伝えることができなかった父親との関係において、松子は不幸だった。それを引きずったまま大人になってしまったことに松子の不幸の原因はあると思う。この人生において彼女はそのことに気づくことができなかった。もし気づいていれば、修正することができた人生だろうと思う。
何よりも大切なのは 誰が愛さなくても自分で自分を精一杯愛することなんじゃないだろうかと思う。他人に求めるよりまず自分に求めることが一番確実である。
2006年 09月 18日
威風堂々な彼女
また、大富豪の孫ということで引き取られた先では、突然現れた姪に対して叔母が自分の娘とむき出しにの差別待遇をする。わが子は溺愛しているが、姪には皮肉ではなく悪口を面と向かっていったり、家政婦代わりに働かせたりしている。
公共の場所で親子が激しく口論したりとか、日本ではあり得ない。と思うような場面も多々ある。
しかも、コメディとうたっているせいか、乗り遅れたバスと競争しておいついたりとか、カッターの刃の入ったガムを吐き出すとか、どう考えてもこれはないのではという場面も・・・
状況設定もあまりにも無理が多い。普通いきだおれの人が生んだ子供をわが子と一緒に双子として育てたりせずに、施設に引き取ってもらうだろう・・・。そういうことを考えると、母親が継子を嫌うというのも納得がいく、わが子一人でさえ大変なのに・・・。この子がいなければもっとわが子に手を掛けて上げられただろうに・・・と思いながら育てたのだろう。しかしそうやって、愛情を掛けられたほうのわが子は親の愛情は当然と思い、感謝せずに継子のほうがかえって親思いに育っていたりするのは皮肉な話だ。
2006年 07月 17日
ラストエンペラー
ドラマ仕立てだからテンポが遅いのはわかってるけど、何でこんな場面にそんなに時間を割くのというところが非常に多い。例えば狂った皇后の様子とか、若くして后妃となった娘がたわむれている姿とか、話の筋に関係なくてどうでもいいんじゃない?というところがやたらに長くて見るのにつかれた。
2006年 07月 15日
KT 面白かったなあ
対立候補だった元大統領候補を拉致して殺害しようとしたり、独裁政権維持のためには手段を選ばない恐ろしい存在としてよく報道されたものだった。
ん?何かに似てるって・・・?
確かに似ている。今の北朝鮮政権に自分が命じておきながら部下の先走りなどと罪を擦り付けることなども、あと作戦が失敗すれば自分のみならず、家族の命も保障されないという境遇において組織に属する人たちに言うことを聞かせているところなども・・・
韓国にもこういう時代があったなんて、今の若い人たちは知らないだろうなあということで、あえて書いてみました。
2006年 07月 01日
三度目の奇跡
アメリカの一主婦ヘレンが夫亡き後16歳の娘を残し修道院に移り住み、そこで人々に尽くしてなくなった。その後ヘレンを慕う人たちが彼女に祈ると奇跡が起こるといわれるようになった。始まりは彼女のなくなった11月の雨の降る日に、修道院の前のマリア像が目から血を流し、それを浴びたヘレンを慕う少女が医者にさじを投げられた皮膚結核が治るという奇跡だった。数年後彼女を聖人として認めてほしいという声が上がり、その調査をするように選ばれたのが、信仰に自信をなくしかけていた年配の神父だった。彼は彼女のことを調べていく過程で、ヘレンの娘と恋に落ちそうになる。しかし、ヘレンの起こしたが奇跡と信じた彼は自分の恋をあきらめ、彼女が聖人と認められることに尽力する。1年後ローマから、審査のための枢機卿が派遣される、枢機卿は調査に当たった神父が信仰に自信をなくしていることを理由に彼女が聖人に列せられることに反対し続ける。
最後に神父はあきらめきれずに、彼女がスロバキアにいた第二次世界大戦中にマリア像に祈ることによって、飛行機から落とされた爆弾が一つも地上に落ちなかったという話をする。それを聞いていた枢機卿の顔色がとたんに苦しげに変わる。実は彼自身がその場にいて、爆弾が鳩にかわっていくのを目の当たりにした。3人の目撃者の一人だったのだ。
数年後、神父は赤ん坊を連れたヘレンの娘と出会う。彼女は「その後、母は聖人として認められたんですか。」と聞く、神父は「今三番目の奇跡を待っているところです。」と答える。
信仰に自信をなくしかけた神父を演じたのは、「白いカラス」では、年若い妻を持つベトナム帰りの男を演じたエドハリスという役者だった。
2006年 07月 01日
文句なく面白い作品
まあ、とにかく飽きさせるところが全くない、楽しい映画でした。
2006年 05月 13日
白いカラス
という言葉はいったいどういう意味があるんだろうと思い、借りてきたのが「白いカラス」
ユダヤ人と偽って古典学の教授で学部長となったコールマンは、実はアフリカン。でもその事実を自分の妻にさえ隠して生きてきた。ところが授業中何気なく発言した「スプーク」ということばにアフリカ系アメリカ人を差別する意味があるから・・・ということで、辞職に追い込まれ、妻はそのショックで数時間後になくなってしまう。どう考えても、一回も出席していない学生がどんな人種かもわからない彼にとって、スプークが「幽霊」という意味以上に使われたとは絶対考えられないのに、そういうことになってしまった。なんという皮肉な結末だ・・・
その彼が、誘われるように恋仲となったのが、まだ、34歳の義父の性的虐待、夫からのdv、子供の焼死という過酷な過去をもった、フォーニア。彼女の元夫もベトナム帰還兵でPTSDを患っているということだから、かなりな年の差だったはずだ。コールマンとフォーニアはそれ以上の年齢差が考えられる。どうして、彼女は年上の男ばかりと関係を持つのだろう?とおもってしまった。それは義父からの性的虐待と関係があるのだろうか?
しかし、彼女は、自分にアイデンティの偽造を課して生きてきた結果が、皮肉にもそれをやめさえすれば、免れることも出来たかもしれない辞職や妻の死だったのにもかかわらず、アイデンティの偽造をつづけたコールマンに、自分の持つものと同様の苦しみを見たのかもしれない。それで、きっとコールマンをさそったのではないだろうか?
それにしても、いろんな人種がいる社会というのは難しいものだ。今でこそだいぶアメリカ人もミックスされてきて、色々な血が入り混じっているほうが当たり前となってきているのだろうけど・・・コールマンが初恋の人と結婚できなかったのもやはり、人種の問題だし、なんとなく日本の同和問題にも似ているような気がした。
今ではほとんどのアメリカ人にネイティブアメリカンの血が数%は含まれているというのだから、遅かれ早かれ新しいアメリカ人種というのも生まれるのかもしれない。
また、数年前、アメリカを騒がせた。実父による娘の性的虐待と殺人の事件も思い出された。
2006年 05月 04日
真珠の首飾りの少女
フェルメールの家に奉公に出されたグリートの生活がとってもリアルに描かれている。運河で水を汲み、ソーダをつかって洗濯をする。家事労働は全部使用人の仕事、朝から晩までこき使われる。奥様は何もせずに、夫といちゃついたり、宝石を身につけてみたり。ハープシコードを弾いてみたり・・・
やがてグリートはで画家で主人のフェルメールから色彩感覚の豊かさを見出され、画家の助手としての仕事もおおせつかるようになる。次第に惹かれあう2人、それに嫉妬する妻、グリートを好色な目で見つめ、手篭めにしようとするフェルメールのパトロン
そんな中で彼女は画家のモデルになることを決意する。そしてそのために妻の持つ真珠の耳飾をつけるために、耳たぶにピアスをする。
働くグリートの手、絵の具を作る彼女と、フェルメールの手が重なる瞬間。画家の言うままに唇を舐めるグリート・・・グリートの耳をピアスするフェルメール
すべてがとても官能的に描かれている。
2006年 04月 30日
Sweet November
キアヌ演ずる仕事しか頭にない広告マンネルソンが、仕事にも失敗、彼女にも振られ、一ヶ月だけ私の恋人に・・・というサラの申し出を受け入れる。
実はサラにも末期癌という秘密があった。
どうしてこうも悲恋物っていうのは、片方を不治の病にするというパターンが多いのかと思う。
せか中しかりだし・・・、命が残り少ないという時、時間が限られている時のみ、真剣な恋はできないの?と思ってしまった。
どうも、キアヌの体は、脂肪がぷよぷよくっついている感じであまり綺麗とは思えなかった。
ジョゼ虎の妻夫木の体のほうが引き締まっていてよかった。
ネルソンが朝起きた時から広告のコピーをぶつぶつつぶやいているシーンには笑えた。
彼女の美しい思い出だけを残したいという申し出を受け入れて去っていくネルソン、サラはほんとうにそれでよかったんだろうか?彼女を看取りたかったネルソンは本当にその申し出をうけいれることが、彼女にとっていいと判断できたのだろうか?という疑問が残った。でもなんとなくわかる気もした。